あの地で最後に何があったのか、覚えていない。
ただ記憶――というより、目に灼きついているのは総てをかき消すような白い闇と、それを引き裂くように走った紫電。それだけだ。
それだけで、自分には十分だった。




窓の外には雪がちらついていた。昨日あたりから冷え込んできたと思ったら、とうとう降ってきたらしい。
「助かったな。城攻めの時に降られていたら難しくなってたぞ」
「よくねえよ!寒いだろうが!」
殆ど悲鳴に近い声を上げる自分の影武者に、リュケイオールは呆れたような視線を送る。
「雪が降れば寒いのは当たり前だろう。これくらいで喚くな、情けない」
「ここ廊下とか無駄に寒いんだよ!王族いるってのにいいのかよこれで!?」
「今では普通だ。国庫が危なかった時の倹約生活の名残だな」
「ンな所帯じみた王家って何かヤだぞ……」
「文句叩いてる暇があるならさっさと働いてこい。ルクレティアに嫌味貰うぞ」
少なからず経験のあるそれを思い出したのか、ロイの口許が軽く引きつった。
よくもまあ顔が動くものだと感心する。同じ顔でこの差はないだろうと思うと、妙におかしかった。
「まあこれで最後だ。明日からは俺が代わる。残念だがな」
「よく言うぜ、勝手にダウンして人の仕事延長させやがって。二度と影武者なんてやらねーからな!」
「つれないな。せっかく女王騎士にでも推挙してやろうと思っていたのに。お前がいると少しは楽出来そうだ」
「てめっ……!」
「冗談だ。素行の悪い騎士などカイル一人で十分だからな。教育の手間が惜しい」
「……いい加減好き勝手言うのやめとかねーと殴るぞマジで」
「それこそ冗談だろう。お前の攻撃が俺に当たると思うのか?」
何か言いたげなまま口ごもってしまったロイの顔がなかなかに面白かった。
どう言われたところで困る。自分は事実しか言っていないのだから。
「……さよーで、王子殿下。まあ仕方ねーからやってきてやるよ。感謝しとけ」
ぶつくさ文句を言いながら部屋を出て行くロイを目だけで見送る。
感謝はしている。が、リュケイオールはそれを口に出して言うつもりは毛頭なかった。自分がそんなことを口にしたところで気味悪がられて終わりだろう。こうしてやり合う関係の方がずっと面白い。
これももうじき終わりだということが少し寂しくはあるが。




始祖の地にて太陽の紋章を奪還してから、十日余り。ファレナは徐々に復興の兆しを見せ始めていた。
しかし当の内乱を収めた英雄本人の顔は殆ど出てきていない。戦後処理に追われているのはその軍師や、内政官として早くも辣腕を振るい始めたルセリナだった。
それもそのはず、戻ってから四日間、リュケイオールは意識を失っていたのである。ロイが影武者として動いていたが、それも数えるほどだ。顔を晒しているだけならともかく、軍事や外交などの話が出てきてしまうとそのうちボロが出てしまうためである。
一応体調に問題はないが、当面は安静にするようシルヴァに釘を刺されてしまっていた。ギゼルと打ち合った時の傷が開いてなければ、もう少し早く解放されてやもしれないが、今更言ったところで詮無いことだ。
時折持ち込まれる書類をベッドの上で眺めながら、大人しくしているしかなかった。


せっかく降ったと思った雪も、夜になってから止んでしまった。窓からしみ込んでくるくる寒さに少しばかり背の傷が疼く。
今夜は上を向いて寝られそうにないとうんざりしながら、カーテンを閉めた。
窓辺から離れるのと同時に、部屋の扉が静かに開く。
鍵はしてあったのだが、気にしたところで無駄だろう。ゼラセのように目の前で消えたりしないだけで似たようなものに違いない。気配もそれほどしないのだし。
「結構元気そうだね。寝込んでるかと思ってた」
「シルヴァが大袈裟なだけだ。どうせ後で山積みの仕事をやるかと思うとうんざりする」
「驚かないんだね」
そう言う割にまったく表情の変わらない蒼い目がこちらを見つめ返してくる。
「来るだろうと思っていた。あれだけ太陽がどうのと言っていたお前が、黙って帰るとも思えなかったしな」
「仕事だからね。安定するまでちゃんと見ておかないといけない」
「あれほど太陽にこだわっていたクセに、マルスカールの暴走は見逃したんだな」
「それは君の仕事だから。余計な茶々を入れるほど肩入れする義理もないし、義務もない。僕の仕事は見届けること、ただそれだけだ」
「無責任だな」
「最初から責任なんてない。言われても困る」
淡々とした言葉だけが返ってくる。まるで役人だ。
「……まあいい。それで、俺には何の用だ。今の俺はお前がわざわざ問うような相手ではないはずだが」
リュケイオールの言葉に海流は軽く肩を竦めた。
「単なる好奇心」
……あながち間違いでもない気がするのは気のせいだろうか。
「どうして太陽を外した?あの時確かにあれは君に宿ったはずだ」
「決まっている。不要だからな、あんなもの」


始祖の地で戦ったあの日、確かに太陽の紋章はリュケイオールに宿ったのだ。命を落としたリオンから黄昏の紋章を継承してしまったことで、太陽の紋章を宿す資格を満たしてしまったから。
そして恐らく、あの場で太陽の紋章を使った。
リオンまでもが自分を置いていくことが嫌で、また誰かを失ってしまうのが嫌で――子供の我儘のような理由で手を伸ばしてしまったのだ。
結果として、リオンは死ななかった。――否、生き返ったというべきかもしれない。
詳しいことはリュケイオール自身にも把握しきれていないが、太陽の紋章の力を知るには十分だった。
リュケイオールが太陽の紋章を宿していたのは、それから意識が戻るまでの短い間だけだ。
今、ファレナを象徴する三つの紋章は封印像に宿され、封印の間に安置されている。


「最初に言ったはずだ、紋章はファレナの象徴に過ぎない。そんなものを宿すだの力を使うだのと……バカバカしい。ロクな結果に繋がらないことくらい少し考えればわかるだろう」
リュケイオールは苦い顔で吐き捨てる。
意識が戻り、鏡で自分に宿った紋章を見た時に彼が感じたものは嫌悪感だった。
母が紋章によって変わってしまったのを知っているせいでもあるが、それ以上に始祖の地にて交わした言葉が苦い記憶として染みついているせいだ。
「俺はマルスカールを許さない。自らが起こしたことを紋章のせいだと自己完結し、目を背けた。山ほどの命を踏み潰しておきながらな。それこそ『くそくらえ』と言うべきだろうよ」
信念を持つのは結構だ。相容れぬものと徹底的に争うのも――極論になってしまうが、仕方がない。だがそれは自らの意志で行わなければならないことだ。リュケイオールはそう思う。
どのような結果になったとしても、それは自らが望んだ末にもたらされたものだ。受け入れる覚悟のない者は大人しく腹の底に不満だけくすぶらせていればいい。
その自らの責任を転嫁し、さも愛国者のように語るマルスカールが許せなかった。最初は真っ当な理由であったかもしれないのに、それすら忘れてしまったかのような態度が許せなかった。これなら私欲のために反乱を起こされた方が遥かにマシだ。
そしてそれ以上に、こうまで人を歪ませる紋章が不快だった。そう思ってしまったのに、宿そうなどと考えられるわけがない。
「そんな迷惑なもの、誰がいるか。ただでさえ今後のことを考えると頭が痛いというのに、進んで厄介ものを抱え込むほど馬鹿ではないつもりだ」
ゴドウィンの内乱は平定したとはいえ、ファレナはまだ政情不安定だ。しかも即位する新しい女王はまだ幼い。
どうやったところで、内乱を平定した自分に目が向けられることくらい自覚していた。それに国の象徴である太陽の紋章など持っていてはどうなるか――考えるまでもない。
今の立場での立ち回りを考えるだけで頭が痛くなってくるというのに冗談ではない。
「あんなものを俺が持っていては、また内乱の種になる。持つのは玉座のじゃじゃ馬の手綱だけで十分だ」
「不老は魅力にはならない?それだけの大きな力も、永久とも言える生も、君が望みさえすればすぐに手に入れられる。もう一度太陽を宿せばいい。簡単なことだよ」
「お前は俺を誘惑にでも来たのか?いるか、そんなもの。人の枠から外れた生を望んで、何をするべきことがある?俺はちゃんと死にたいんだ。礼も詫びもしなければならない相手が山といる。必要以上に待たせては申し訳ない」
少しばかり沈黙が続いた。目の前にいる、その人の枠を外れた者は、やがてほんの僅かに目許を綻ばせて小さく笑う。
「……その意志は、尊敬する。目の前の誘惑を振り捨てるなど、そう出来ることじゃない」
「俺の強さなものか」
自然とリュケイオールの視線は左手に向く。もう黄昏の紋章もないその甲にはただ一つ雷鳴の紋章が宿っている。
「ずっと助けられたままだ。俺はどうしようもなく手間がかかる、駄目王子らしくてな」
滅多に褒めてはくれなかった渋面と、優しげな微笑と、豪快な笑顔と――もう懐かしいとしか言えなくなってしまった顔が浮かぶ。
きっと、怒っているだろう。呆れているだろう。
自分はこの歳になっても背中を押されなければ決断出来ないような意気地なしなのだ。
それでも見捨てないで待っていてくれた。あの時でさえも助けてくれた。ただ流されるのではなく、自分で判断する機会を与えてくれたのだ。
これをふいにしては、後でどれほど叱られるかわからない。
「わかっているから手放したんだ。振り回されかねないものを宿し続ける度胸など、俺にはない。奴と同じようになってしまったらそれこそ笑いものだ。身の程は弁えているさ」




「それだけきっぱり言い切れるなら持ってても大丈夫そうだけどね」
「馬鹿を言え。自分が如何に脆い人間か、俺が一番よく知っている」
「傲慢なのか謙遜なのかわからない。まあ……らしいと言えばらしいけど」
太陽の力は滅びと再生。まるでカードのように揺れ動く不安定な力。
だが、表でも裏でも同じカードだ。それが変わるわけではない。不安定だが、根ざした意志は何者にも覆せない。太陽とはそういうものだ。
「やっぱり所有者は君だよ。不安定な精神を傲慢さで覆って、寂しいくせに孤立しようとする。そしてたとえ歪んだ方法であろうと、思い願ったことは愚直なまでに貫くんだ。ぴったりじゃないか」
「……そう言うと馬鹿にされているようにしか聞こえんぞ」
「本当のことだろう?君が最初から思い続けていたことは今でも変わっていないはずだ。何年経ってるのか、歪んでどれだけ取り零したのかは知らないけどね」
「……用は済んだだろう。さっさと帰れ。これ以上お前の顔を見ていると殴りそうだ」
「君が僕を殴れるとは思わないけどね。あいにく年季が違う」
今この時のリュケイオールの顔をあの影武者に見せれば、幾らか留飲が下がったかもしれない。
だが残念ながらこちらも事実を言っただけだ。
「まあ言われなくても帰るよ。これでやっと終わりだ。さよなら、リュケイオール。馬鹿なことはしてくれないのを願うよ。仕事が増えると面倒でたまらない」
「こちらの台詞だ。お前の顔など二度と見たくない」
「なら仕事抜きで来ようか。考えたらファレナは見てないんだ」
「俺の前でなければ好きにしろ。そこまで管理しきれるか」
不愉快そうにそっぽを向いた、まるで子供のような表情に海流は薄く苦笑した。

久しぶりに群島に帰ろうか――


            

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一応、これにて完結です。
当初から最後は王子しかいないと思ってました。当サイトの設定が出てるせいでまだ微妙に説明不足なところありますが……鬱展開覚悟で短編で補完しましょうかね。

途中でかなり間空いてしまったので非常に長い連載になってしまいましたが、これで終了です。
ありがとうございました!



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