――紋章を守るには不十分だ――
ゼラセがそう不満げに口にしていたのを、海流は何となく実感出来た。

警備が薄い。

人数はある程度揃えているようだが、それだけだ。しかも平生紋章が安置されている祠には誰も立ち入らない。誰か王族が常駐しているわけでもない。
何より、ここに紋章があることはファレナ人であれば誰でも知っている。
それだから、黎明の時のように盗まれたりするのだ。
現在政権を握っているのは王族ではなくゴドウィン家であるが、それでも変わってはいない。これは土地柄だろうか。
まあ、それをどうにかするのは海流の仕事ではない。

さっさとすることを済ませてしまおうと、海流は離宮の中に入っていった。






黄昏時になると沈む太陽の光を受け、西の離宮は紅く染まる。

まるでこれから自分が被る血のようだ。何とはなしにそう思い、サイアリーズは小さく自嘲気味に笑んだ。


別に後悔はしていない。
後々のこの国を担う彼らのため、障害となるべきものは排除しなければならない。そうでなければ、今回の二の舞だ。
戦時中が一番都合が良い。戦死であれば、誰一人咎め立てる者もいない。戦後に粛清を行うよりも、ずっとマシなはずだ。


左手の不快感に思わず顔をしかめる。
宿してからさして間もないが、傷が疼くようなこんな感覚には特に覚えがない。

いや、疼いているのは手ではなく――紋章?

「ちょっと予想外」
ぽつりと落ちた声の方を見やる。今まで自分以外誰もいなかった室内に、さも当然と言わんばかりに「それ」がいた。
向こうの城で見かけた時と変わらず、表情には目立った変化もない。黄昏の光を受けて、柔らかそうな金茶色の髪が燃えるような赤に変わっていた。
どうも元凶はこいつらしい。それがわかると、今度は別の不快感が湧き上がってきた。
「警備もまるきり無視かい。あの女と同じでタチが悪いね」
「警備が緩すぎるよ。何となくゼラセの気持ちがわかった」
さして抑揚のない声。つくづく、真の紋章絡みにはロクな奴がいない。


「……で?わざわざあたしに何の用だい。リュカの時みたいに見にきたとか?」
「半分正解」
「残りは?」
「苦情」

言われたことの意味がよくわからなかった。

「……何だって?」
「だから苦情。太陽の紋章のことを考えれば、君がやったことは愚行もいいところだ」
ようやく得心がいった。
つまり、先の女王親征で自分が行ったことを非難しているのだ、こいつは。
確かに太陽の紋章の暴走の危険を考えるなら言われたことの意味はわかるが、まさかこいつから言われるとは思ってもみなかった。

何故って、自分のことをもっとも責めるべき人間は他にいるのだから。

「なるほどね……。紋章のことしか考えてないあんたらから見れば不愉快極まりないってヤツかい?」
「国のこと考えてやったとでも言う?戦を無駄に長引かせるのは王族としても褒められたものじゃないと思うけど。元老院の粛清なんて和睦の後にすればいい話だろう」
その言葉に驚いた。紋章のことしか頭になく、世情の知識はないと思っていたのに。
それなのに、誰にも打ち明けずに考えていたことが何故見抜かれているのだ。
「誰かの入れ知恵かい」
「年の功だよ」
よくもまあぬけぬけと。
「……ま、それが正論だろうさ。
でもさ、その粛清をやるのは誰だい?実際に動く奴じゃない、指示を出すのは……人を死なせるのはリムかリュカだ。
あの子達にそれをやれって言うのかい」
「出来ないと思う?」
言葉は返さなかった。しかし答えは考えなくてもわかる。

――否だ。

それが必要であるならば、彼らはその決断をするだろう。
たとえどれだけの傷を伴ったとしても。

「国に立つ者は血や争いを好んではいけない。でも、恐れてもいけない。必要な時は恨みを買い、汚点をつける結果となっても選択をしなければならない。違う?」
まさかこんな教本のような台詞を吐かれるとは思わなかった。
そんなことはわかっている。王とはそういうものだ。リムスレーアはそう教えられてきたはずだ。
だが、そんな本に書かれるような正論の問題ではないのだ。
「わかってるよ、そんなこと。でもあたしは……あの子達にそんなことさせたくないんだ」
いずれ国を背負うとしても、まだ幼すぎる。そんな子供にこんな汚いことはやらせたくない。
こんな、古い時代の後始末などやらせたくないのだ。
だからこの方法を取った。和睦した後では恐らくリュケイオールがそれをやるであろうから。
己のことを何とも思っていないだけにある意味一番性質が悪いのだ。

「傲慢だね」
投げかけられた言葉は、予想通り。それに思わず苦笑する。
そんなことわかりきっている。だが、そうしたいからこの選択をしたのだ。
「何言われようと仕方ないさ。それくらいの覚悟は出来てる。でなきゃこんなことするもんかね」
「……変わりそうもない、か。なら好きにすればいい」
「は……?」
思わず言葉とも何ともつかないものが喉を突いて出る。
実にあっさりとしているではないか。てっきり己の意に添わなければ紋章を殺してでも奪い取ろうとしてくるかと思っていたのに。
「あ……あんた……太陽の紋章を暴走させたくないんじゃなかったのかい?」
「そうだけど、黄昏が君を選んだのならどんなものであったとしてもそのことにも意味がある。それを無視してまで奪うつもりはない。紋章の意思には変わりないから」
「にしたってねぇ……」
「宿星だって動いてるんだ、だったら僕がすることなんて警告するか見届けることくらいだよ。言うことも言ったし」
抑揚のなかった声に初めて感情めいたものが混じった。言うだけ言ってすっきりしたような、どことなく満足したような声だ。
どうもあの「苦情」は本当に私情のこもった苦情に過ぎなかったらしい。それがわかると妙に背筋から力が抜けた。
覚悟していたのは自分ばかりで相手はちょっと文句を言いに来ただけとは、何とも馬鹿馬鹿しい。
「でも家系なのか知らないけど今一つ不安定な精神力はどうにかしてもらいたいね。君は割とマシな方だけど、支えがなくなるとあっさり倒れる。危なっかしくて仕方ない」
「大きなお世話だよ……」
「反応一緒なのも同じだ」
すぐに先程と同じような感情のない声に戻ってしまったというのに、面白がられているように感じるのはこちらの気のせいだろうか。
「ああもう……用が済んだんならさっさと帰んな!警備呼ぶよ!」
「はいはい。まあ頑張って」
そいつはあっさりと踵を返し、堂々とドアを開けて出て行った。
随分と態度の大きい侵入者だ。


再び誰もいなくなった室内で、サイアリーズは窓の外を一瞥する。
既に陽は落ちて、藍色の空を山並みから漏れる光が僅かに朱に、そして金に染めていた。
何となく、今は静かになった紋章に目を落とす。
自分が持つのは黄昏。リュケイオールが持つのは黎明。
何とも皮肉な宿主の選定だと、ふと思った。


                

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これだけの長さに一年以上……すいません。本当にすいません。
会話のテンポ(特に終わり)は悪くなかったので、意外といいコンビに思えました。普通はないですけど。



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